「料理する」ということ

みなさん,こんにちは。

今日語るのはタイトルの通り「料理する」ことについてです。

では,早速僕の日頃からの考えを発表したいと思います。

 

いきなりだがみなさんに質問がある。その質問とは,

 「サンドウィッチ作り」は「料理」といえるのか?

というものだ。確かにサンドウィッチは"dish"という名詞においては料理だ。

だが,"cook"という動詞においてはどうか。サンドウィッチ作りを経験(誰にでもあると思

うが)した方々にはわかるあの作業量の少なさ。高い食材を使ったり,誰か大切な人のため

作るサンドウィッチは除き,ただ自分のために作るのは難しいことではない。僕は大学に

進学してからは昼食としてサンドウィッチを作り始め,この習慣が身に付いてからはコン

ビニやスーパーで見かけるサンドウィッチとは距離を置くようになった。

話がそれてしまったが,本題に戻ろう。「サンドウィッチ作り」は本当に"cook"という意

味に相応しいのか。だが,まず先になぜ僕がこのような疑問を抱いたのかを説明する。

先にも述べたが,僕は一人暮らしをきっかけに自炊という未知なるものに挑戦し始め,今

では十分な抵抗力が身に付いた。(まぁ,難しいと世間一般的に思われているような品目を

作ったことはないのだが。)この1ヶ月とちょっとの料理歴からある考えに至った。その考え

とは,

 「料理する」って,煮物作ることからではないのか

だ。煮物作りの難易度が高いのは,実家暮らしの時毎回毎回祖母の煮物の味付けが違うこ

とから理解したものだ。味だけではなく,実際煮物を作っている時の祖母は普段の料理よ

りも集中していたことからも伺えた。この考えが芽生えたから,僕は煮物作りレベルより

も作業量の少ない品目を作るのは「料理」ではないと定義した。

僕のこの考えの前では,お弁当の卵焼きの焼け具合が完璧だという嬉しそうに話す女の子

たちはただの「にわか」に分類されてしまう。

以上が僕が日頃「料理する」ことについて思っていることだ。

 

みなさん,今日の僕の持論はいかがだったでしょうか。

もしかしたら不快に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが,僕のように思っている

方も一定数はいるのではないでしょうか。

では,今日はここらへんで失礼します。みなさん,素晴らしい食事を。

 

 

 

 

「気が散る」という現象について

普段の生活の中で僕たちは何時間くらい集中しているのだろうか。

朝ご飯を作っている時,講義を受けている時,通学をしている時など,集中を要する場面

は多く見られる。

では,それらの場面に要する時間の中でどれくらいの割合を集中することに割いているの

か。

とある心理学者によると,ある作業に費やす時間の半分程度しか集中していないという。

規模を大きくし一日単位で考える。睡眠時間が7時間だとすると,残りの17時間の半分つま

り8時間30分もの時間を僕たちは空費している。

確かに,今振り返れば思い当たる節がある。

朝ご飯を作りながらまだ読み終えていない小説の続きを想像したり,講義を受けながら教

室の窓からジオン製のモノアイが覗いてこないかと想像したり,通学しながら金田のバイ

クで移動できたらなどと想像が湧き立つのである。

さて,この結果を知り,明日からは活動時間の半分を情熱を抱いて過ごすのか,はたまた

た,半ば諦め状態で気楽に過ごすかは個人の自由だ。

僕はこの事実を知った時,なぜだか嬉しく感じた。現実では未だに慣れない環境での生活

であったり,大学での一人ぼっちの時間であったりとでなかなかに厳しい状況にあるのだ

が,そんな時間の中にも「気が散る」という現象のおかげで余裕が確かに存在すると気付

いたからだろう。

それでは,今日の記事はここいらで幕を下ろさせていただきます。

皆さん良き生活を。

おやすみなさい。